歴史

奄美では内地(本土)と比較してその歴史や風俗が書物として残されている事が少なく、舟こぎについても例外ではありません。文献としてはお由羅騒動に連座して流刑に処せられた薩摩藩士、名越 左源太(なごや さげんた、文政2年12月28日(1820年2月12日) - 明治14年(1881年)6月16日)が、嘉永3年(1850年)に流刑されて安政2年(1855年)に薩摩に帰還するまでの5年間に、奄美大島の風土をつぶさに観察ししたためた奄美大島の地誌『南島雑話』にその様子が図入りで紹介されています。

奄美舟こぎ

五月五日ハレコギの図
​舟漕競争ひ、一番、二番に早きは、褒美米を遣す事也。
百姓共勇み漕争事也。
諸人見物、男女群集す。
褒美米也 一番 二番
伊津村にて此小き離れ島を廻り、本の所へ漕帰るを勝とす。
小き離れ島の惣名をタコトリと云ふ。

(舟こぎ競争にて、一番二番に早い者には米を与えろ事にしたところ、多くの者が勇んで漕ぎ争った。見物人が大勢集まった。伊津村のタコトリと呼ばれる小さな離れ島を廻り、より早く帰った者の勝ちとする。)

図:奄美市立奄美博物館所蔵
  『南島雑話』写本「永井保管本」より

「ハレコギ」とは舟こぎの事であり、当時は競争舟の事を「ハレフネ」と呼んでいました。
 これは琉球の「ハーリー(爬龍船・ハーレー)」からの流れであると思われます。
琉球語の古語を集めた『混効験集』には、「ハレは、走という事」とあります。つまり「ハレフネ」とは「走らせる舟」と言う事になります。
 また、シマウタ『芦花部一番(あしきぶいちばん)』(加計呂麻島の実久(さねく)では『実久節』と呼ばれる)の中でも舟こぎの事が歌われています。

芦花部一番や 上殿内(うんとぬち)ばぁ加那くばや一番や 実久くばや
(芦花部一の美女は、上殿内に住むばぁ加那。クバヤ(小早)舟競争の一番は、実久のクバヤ)

「くばや」とは「小早船」と呼ばれ、当時使用されていた比較的大型の板付舟(丸木舟に対し和船に類似した構造を持つ舟)の事です。

 沖縄の爬竜(ハーリー)は「航海の安全」や「豊漁」を祈願する御願(ウガン)のための神事と言う意味合いがありますが、奄美大島の舟こぎに於いてはゴガチゴンチ(旧暦5月5日の節句)の宴の一環としての意味合いが強く、近年では日にちに関係なく祭りの呼び物・メインイベントとして行われる事の方が多いと言えるでしょう。

電話をかける